話題
ワクチンによる対立はなぜ起きる? 不安を拠り所に増え続ける差別
リスクの受け取り方「多様」にしたコロナ
【眠れぬ夜の死の話#3】
新型コロナウイルスでは、ワクチン接種をすすめる人がいる一方、それをためらう人もいます。それぞれが極端な主張となり、時に対立までしてしまうのはなぜなのか。不安を拠り所にした集団化と増え続ける差別のバリエーションについて、評論家で著述家の真鍋厚さんに、つづってもらいました。
死神の魔の手から逃れようとしてかえって死神の懐に飛び込んでしまうといった過ちがよく起こる。別段、死神がそう仕向けたわけではない。死に対する恐怖が通常であれば抑え込むことができていた衝動を刺激し、悪夢としか思えない光景を自ら引き寄せてしまうのだ。
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)において、予防または治療法をめぐるデマが多数の人々を死に至らしめた。
2020年3月、イランでは、アルコールを飲めばコロナウイルス感染症の治療に効果があるという話がネット上で拡散され、27人が密造酒によるメタノール中毒で死亡した(密造酒飲み27人死亡、新型ウイルスに効くとのデマ信じ イラン/2020年3月10日/AFP)。
同年8月に学術誌「American Journal of Tropical Medicine and Hygiene」に掲載されたソーシャルメディアの偽情報が公衆衛生に与える影響に関する研究で、「漂白剤を飲むとウイルスが死ぬ可能性がある」「飲酒はウイルスを殺すかもしれない」「牛の尿と糞を飲むとコロナウイルスを治すことができる」などの噂が確認されたとしている。
特に高濃度のアルコールを摂取すると体を消毒してウイルスを殺すことができるというデマは世界各地で広がったという。その結果、約800人が死亡し、5800人以上が入院。そのうち60人がメタノール中毒で失明したと報告している(COVID-19–Related Infodemic and Its Impact on Public Health: A Global Social Media Analysis)。
わたしたちはこれを他人事のように笑うことはできないだろう。コロナ禍が始まった当初、チェーンメールのように「ウイルスは26~27度の温度で死滅する。お湯を飲めば予防できる」といった情報が出回った。
そこには医療関係者の友人や知人からのメッセージであるというもっともらしい注釈が付いていた。真偽不明ながら多くの人々が釣られるようにシェアしたのだった。
その後も似たような出来事が相次いだ。防護服を着た医療従事者が懸命な処置をするような呼吸器系の重篤な感染症のイメージは、良くも悪くもわたしたちの行動に具体的な変容をもたらしたのである。
人は死の考えが意識に上ってきた場合に、自身の文化や信念などを強化する傾向を持つという仮説を提唱する「恐怖管理理論」(Terror management theory)に従えば、もともとその人物が秘めていた病気や健康に対する見解がパンデミックをきっかけに極端な形で現れたということでもある。
ただし、これは両義的だ。要するに「現代医学は絶対的な善だと信じている」場合も、その世界観を強化する方向に作用するのだ。
恐怖管理理論は、自尊心を高めることや集団化のメカニズムとも結び付いていることから、社会においてイデオロギーに基づく対立を作り出す面がある。
およそ1年数か月にわたるコロナ禍を通じて、人々の間に生まれた対立として現れたのがマスク着用の有無、民間療法に対する態度といった治療や予防法に関する不一致であったとすれば、現在では、その争点がワクチンへと移行している。なぜなら、ワクチン接種後の死亡者数がマスメディアによってフォーカスされ、世間の関心が集まったからだ。
当然ながら既存のワクチンと同様、異物を体内に取り込んで免疫反応を誘導する性格上、予防接種に伴うリスクはゼロではない。ワクチン接種に前向きではない人々の多くは、陰謀論をはじめとしたディスインフォメーション(故意に流す虚偽の情報)のせいではなく、副反応や長期的な安全性といったリスクの算定の中で戸惑っているのである。
恐怖管理理論の観点から見れば、巷間よく語られる「100万分の1」といった確率論は意味をなさない。「100万分の1」であっても当たればゲームオーバーかもしれないというロシアンルーレット的な懸念が拭えないばかりか、根本的には、接種すること自体に新たな技術にによる「未知のリスク」の発現という可能性が入り込むことを意味するからだ。一言でいえば、接種後に起こる心身の変化のすべてに不吉な兆候を読み取るという「かもしれない」の懸念が人生全体へと浸透していくのである。
ワクチン接種で得られる利益=有効性と、副反応などのリスク=安全性を天秤にかけて接種の是非を判断すべきという定型文をよく見かける。問題は誰が呼び掛けているかだ。とりわけ治療ではなく予防に位置するワクチン接種は、あくまで任意であることが大前提であるがゆえに、人々のイデオロギーを露骨なまでに浮き彫りにする。
それは、かつて社会学者のウルリヒ・ベックが言った「不安社会の価値体系」であり、不安からの連帯が一定の力を持ちうる事態である。
以上を踏まえて、私たちが本当に考えなければいけないことは、ベックのいう「危険社会の目標」が掲げられた現代の日本において個人が背負わされるリスクの不確かさ、それが現実化した際の不安定な境遇が、不毛な対立を招いてしまっていること。そして、リスクのとらえ方は人それぞれであることを落ち着いて受け止める時期に来ているということだ。
「失われた20年」に翻弄され、政治に絶望している人々にとって、被害者となるかもしれない可能性自体が到底受け入れ難いといった側面があることは否定できない。「国家はこれまでわたしたちを助けなかったのだから、これからも助けないだろう」という予感だ。
このような懸念材料が総じて何か被害を被った場合に不利な立場に置かれ、社会から退場を余儀なくされるというネガティブな考えを抱かせる。
そもそも、ある人にとってPM2.5(微小粒子状物質)による大気汚染は由々しき問題であるが、ある人にとっては残留農薬などによる食品汚染の方が由々しき問題であるというふうに、想定される「最悪の事態」が個人ごとに異なるがゆえに、「関心事」もバラバラに分裂してしまっている。
そこにおいて、社会全体の便益を優先するという建前の強行は、それに伴う全体主義的な抑圧を誘発するため、別種の暴力として告発されかねない。職場における制裁や排除はその好例だ。
先のベックの言葉を用いると、新型コロナウイルス感染症という「毒物」は、年齢や持病、軽症者や無症状感染者の多さといった複雑な要素が、個々のリスクを過小にも過大にも評価できることからむしろリスクの受け取り方を「多様」にした。
このような「多様」な1階建て部分に、ワクチン接種という2階建て部分が乗っかってしまったのだから、さらなる「多様」化が促進されることは目に見えている。
例えば、重度の過敏症の既往がある人にとって、今回のワクチンを 「毒物」とみなすことは何ら不思議ではない。究極的には、(未来の可能性を含めて)「自分にとって何が恐ろしい『毒物』となり得る」かが物事の優先順位を自動的に決定するのである。比較衡量(リスク・ベネフィット)の議論は不安を和らげることはできないだろう。
なぜなら、大規模統計云々ではなく、各個人が被る恐れがあるリスクを誰も正確には算定できないからだ。これは、世界の至るところにある膨大なリスクを苦にするのではなく、新しい事象に伴うリスクそのものの不透明性を苦にする状態といえる。
日常レベルでも、わたしたちは添加物や処方薬やサプリメント等々を通じてこの種のリスクに絶えずさらされている。重大な疾患を告知された後に様々な治療法が選択肢にあると知った人々のうち、画期的な治療法自体に大きなリスクがあるために躊躇したりすることは珍しくない。これは、本質的には視界不良のまま飛び込むことへの気がかりだ。
どんなに賢い人間であってもリスクそのものを完全に避ける手立てはない。どれだけエビデンスを集めて注意深く選択を積み重ねたところで運命の気まぐれはあるのであり、予言者のように未来を透視することが不可能な以上、何もかもが終わってしまうまでは分からないという留保が付くのだ。
だからこそ、不安を拠り所にした集団化と差別のバリエーションにいちいち好奇の目を向けたり、驚いたりして振り回されるのではなく、その諸々の原因がわたしたちの社会を支えている屋台骨にあることに思いを致す必要がある。どこにも真に安全な避難所はないと覚悟を決め、不安の正体を見極めることを厭わなければ、それほど深刻になることはないと諦観することもできる。そして自他の価値観の違いに一喜一憂する徒労に気付くだろう。
唯一確実なことは、ありとあらゆるリスクを回避した先に待っている「最悪の事態」、つまり生物的な限界としての死は避けられないのだから。
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